仙台大学 教授 丸山 富雄
今日、スポーツには個人的にも社会的にも多くの役割や社会的意義が期待されています。
政治や経済的な役割や意義もあります。例えば政治的なものでは、かつて「ピンポン外交(1971年)といわれたアメリカと中国との国交正常化に寄与したスポーツの役割や、南アフリカのアパルトヘイト(人種差別)政策に反対し、IOCはいち早く南アフリカを除名(1970年)し、またその政策廃止により、ここでもIOCは国連よりも早く南アフリカの復帰(1991年)を承認しています。また経済的には、5兆円規模といわれるスポーツ産業は各種イベントや関連産業を加えると10兆円とも12兆円とも推定され、わが国の自動車産業にも匹敵する主要な産業となっています。
しかしここでは私たちにより密着したスポーツの社会的意義についてみることにします。様々な領域で多くの社会的意義が指摘されていますが、大きく次の3つにまとめることができると思います。一つは「人間形成として」、二つ目は「レジャー活動として」、そして三つ目が「人間関係の紐帯として」です。スポーツのもつ社会的特性を踏まえながら、これらについて説明したいと思います。
?人間形成として:現代社会における過剰ストレスや慢性的運動不足に対し、スポーツは爽快感や達成感をもたらすとともに、生理的・肉体的にも健康や体力を維持・増進させるという心身両面での「ヘルスメンテナンス」機能を持っています。いわゆる健康や体力づくりとしてのスポーツです。各種調査でも、スポーツを行う動機や目的で常に第一位に挙げられています。
また成長期の子どもたちにとっては、性格形成を含めた「教育」としての機能を持っています。学校体育やスポーツ少年団のスポーツは、スポーツの持つこのような機能や意義に着目し、利用しているものです。またヨーロッパのスポーツクラブは家族で入会することが一般的ですが、そこではクラブライフをとおし、子どもへの市民教育として、スポーツやスポーツクラブの役割が強調されています。
さらに、スポーツは楽しみの追及のなかに、その挑戦性や技術性という特性を持つことから、自己の可能性や新しい発見という「自己開発・向上」機能も持つといえます。この機能は子どもたちばかりでなく、生涯学習として、成人の場合にも学習(スポーツ)のきっかけや継続の動機づけとして重要な役割を担っています。アメリカの心理学者チクセントミハイは、自己の能力とそれを発揮する課題や機会が釣り合ったとき、無我夢中の楽しい心理状態「フロー」が得られると述べます。しかし人間は、自己の能力を高め、高いレベルにチャレンジする「深いフロー(高いレベルでの楽しみ)」を求めること、またそうする必要もあります。日本語でいえば、芸事やスポーツでの「極める」ということになります。「深いフロー」も「極める」ことも、スポーツにおける人間形成機能の主要な意義といえます。
?レジャー活動として:週40時間労働や学校を含む週休2日制の定着によって、自由時間は増大し、今後もますます増えることが予想されます。スポーツは基本的な性格として、遊戯性という「楽しさ」を追求する「アミューズメント」機能や「欲求充足」機能を持っています。自由時間社会において、スポーツは重要なレジャー活動として、生活にゆとりと豊かさ(クオリティ・オブ・ライフ)を実感させてくれます。
現代社会におけるスポーツの社会的意義ではこのことが最も重要であり、また強調されるべきだと思います。先ほどの健康づくりや体力づくり、また教育としてのスポーツの意義も、次の社交としてのスポーツの意義も、その前提には「スポーツを楽しむ」ことがあっての第二義的な付加価値です。わが国では、歴史的にスポーツや遊びには常に理由や理屈が付いてまわりました。脱工業社会や成熟社会、また生涯学習社会といわれる今日、スポーツをまず理屈抜きで楽しむことが必要です。
しかし今日の生涯学習社会におけるレジャー活動のあり方は、かつての産業社会における、休息、気分転換あるいは娯楽という意義から、スコレーすなわち創造的なレジャーが求められています。スポーツにおいても、受動的あるいは時間と金の単なる消費としてのスポーツから、前述の「自己開発」欲求に即した個性的で、積極的、そして自立的なスポーツ活動が求められます。
?人間関係の紐帯として:紐帯とは結び付けるということで、ここでは人々を結びつける手段としてスポーツが利用されます。スポーツは地位や身分から解放され、また性や年齢等の属性を超えた大衆性や解放性、また脱地域性という特性を持っています。そこから競争や共同の関係を通し、純粋な交流を育むという「コミュニケーション」機能を持ちます。そこでこの機能は、一方では家族や地域の交流や親睦・連帯、またナショナリズムの高揚に寄与するとともに、他方で地域や国家を超えた人々との交流、すなわち国際化やインター・ナショナリズムに貢献するといえます。
現在、国が積極的に勧める「総合型地域スポーツクラブ」は、自立したスポーツクラブというわが国のスポーツの成熟化とともに、クラブ会員内外の交流を通した地域の活性化やまちづくりという課題を担っていると考えます。その意味で、コミュニティ・スポーツや「総合型地域スポーツクラブ」は、スポーツの持つ「人間関係の紐帯」としての機能に大いに期待しているといえます。
またスポーツには人々の気持ちや感情を「ナショナリズム」へと導く装置があるといってもよいでしょう。戦前のベルリン・オリンピックがヒットラーによって徹底的にナショナリズムに利用されたように、極端なナショナリズムが悲劇を生むことは歴史的にも証明されています。しかし自分の住む地域や国をよく理解すること、愛することが、インター・ナショナリズムに通じることだと思います。このことは「ローカリズム」と「グローバリズム」の関係にも似ています。現在、地域性、個別性が見直され、様々な分野でローカリズムが強調され、グローバリズムとの合成語、「グローカリズム」という言葉が使われています。「グローカリズム」とは、地球規模の視野を持ちつつ、地域性、個別性を尊重して活動することだと思います。スポーツにおけるナショナリズム、インター・ナショナリズムも同様で、両者ともに大事にしたいものです。
以上のようにスポーツには個人的にも社会的にも優れた社会的意義があります。しかしこのような意義もスポーツを正しく行って、また開放的なクラブ運営を行って、はじめて得られるものです。これまでのわが国のスポーツ体系は様々な意味で分断されたものとなっており、そこから多くの弊害、すなわちこれらスポーツのもつ意義が十全に達成できない状態となっています。
年齢層での分断という意味では、スポーツ少年団、中学校、高等学校の各部活動という具合に分断され、子どもの将来を見据えた一貫した指導方針がなく、各部門でチャンピオンを目指すことが一般的となっています。したがって勝利主義を背景とする大人による「管理主義」や「押し付け」の指導が横行することになり、その結果、子どものスポーツからの早期ドロップアウトの原因の一つともなっています。
また成人のスポーツ参加の場合にも、性、年齢、技術レベル、興味・関心などに基づき、少数の閉鎖的なクラブやチームが数多く結成されています。これでは施設の分捕り合戦が常態化するとともに、前述した様々な交流や子どもの市民教育など期待できません。
これら諸問題を解決する一つの方法は、現在、国がその設置と望ましい発展に期待を寄せる「総合型地域スポーツクラブ」にあると思います。性、年齢、興味・関心、技術レベル、そして種目などの多様性を特徴とする「総合型地域スポーツクラブ」、すなわち誰もが入会できる開放的なスポーツクラブによって、わが国の分断されたスポーツシステムが少しでも改善されることを期待します。今後ますます「総合型地域スポーツクラブ」は全国に設置されていくことと思いますが、このスポーツのもつ社会的意義を常に念頭に置き、また「グローカリズム」の視点からのクラブ運営が必要といえます。